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千葉雅也さん「制作と生活」――『自分の薬をつくる』書評②

坂口恭平さん、というか、同い年でもあり、まだお会いしたことがないけれど、奇妙な、というか正直に言えばどことなく「居心地の悪い親近感」を感じている人物なので、許可はいただいていないが、おずおず坂口くんと呼ばせていただきたいのだが、坂口くんの新刊『自分の薬をつくる』の書評をご本人から依頼された。これは坂口くんが自らの心身をやりくりしているメソッドを応用して人々を悩みから解放する、というワークショップの記録である。そのやりとりには随所に坂口くんらしさ——と僕には思われるもの——が表れているが、申し訳ないことに、その個々のケースを読むのはちょっとツラくて、というのは、そこで例示される悩みがフィクションだとしても、僕の心身は多少影響を受けてしまうので、ある程度は読み飛ばし、地の文で述べられていることを中心に読むことにした。そうするしかなかったという点にたぶん僕の特徴があり、携帯番号を公開して厖大に人の悩みを聞いている坂口くんには驚くばかりで、そこに我々の違いがあるのだろう。
 
本書の最大の主張は、「アウトプット」が大事だ、というものである。食べたら排泄する、酸素を吸ったら二酸化炭素を出すわけで、インプット、アウトプットの両方あってこその健康なのである。これはもっともな主張で、僕がこの数年「制作の哲学」というプロジェクトネームで行っている考察はまさにそのことだ、と思った。
 
アウトプットというのは、広い意味での「もの作り」で、要は、生活の中にもの作りのリズムを作ることが坂口くんの言う「自分の薬をつくる」ことなのである。何をどう作るかは人によって適性があるから、人それぞれ異なる。だから「自分の」薬なのであり、そしてそれはすぐ見つかるわけではない。色々試してわかってくる。
 
読者に一応の注意として言えば、心身のトラブルをただちにアウトプット活動で改善できるわけではなく、医療的・専門的なサポートは有効なので、本書に励まされたからといって、無理に病院などに行くのを我慢しないでほしい。一時的に薬(文字通りの薬)が必要だったり、薬を飲み続ける必要があったりするし、その上で長期的な改善のために「自分の薬をつくる」のをやってみるというのも、本書の一つの受け止め方だろう。

で、アウトプットする=物作りをすると、なぜ健康のためになるのか。
 
ひとつには、何であれ「作業」に取り組むと、余計な悩みから(一時的にでも)解放されるというのがある。作業療法である。
 
これは経験的に明らかで、悶々と悩んでいるのは何かアクションを行う前で、ひとたびエイヤッと重い腰を上げて取りかかると、その「行為の枠組み」に自閉したような状態になり、余計なノイズがシャットアウトされる。「重い腰を上げる」ことがどうしても困難な場合は別だが、何であれ、取りかかってしまうと意外に気持ちが晴れるということはある。僕の場合、筋トレがそうだ。ジムに行くのは面倒だが、なんとか行って、始めてしまえば自動的に体が動き、そしてその後は不思議と頭がスッキリしている。
 
やることが明確な事務作業も筋トレに似ており、始めるまでは面倒だが、いったん始めてしまえば、気づかぬうちに奇妙な集中力が湧いている。これを「作業興奮」などと言うらしい。
 
作業興奮に入ると、雑念がなくなる。これは脳科学的に言ってそうらしい。雑念が湧くことを「マインドワンダリング」と呼ぶのだが、それは、脳のエネルギーに使い道がなくて、自由に遊動している状態である。そのとき、エネルギーは、脳の複数領域にまたがる「デフォルト・モード・ネットワーク」(DMN)を走り回っている。だが、明確なアクションを行うと、エネルギーがそのために備給され、DMNから撤退し、マインドワンダリングが抑制される。つまり、行為と雑念はトレードオフの関係にある。
 
単純作業で頭スッキリ、というのはひとつの方法なのだが、おそらくそれだけでは悩みへの対処としては不十分だろう。なぜなら、たとえば筋トレだけでは、「意味」への取り組みがないからである。
 
マインドワンダリングは必要なもので、抑止すればいいのではなく——筋トレだけしていて何の雑念もないというのは、まさに「脳筋」である——、それは記憶の整理であり、そして未来へ向けて物事の新たな関係づけを行う創造的な過程なのだが、ここで問題なのは、マインドワンダリングのある種の状態、「悩み」として経験されるある種の閉塞した状態である。それは何なのか。出口のない状態である。というのは、精神分析や現代思想を念頭に置いて言えば、何か「本当の意味」を求めて、ああでもないこうでもないと観念連合をたどり、挙げ句、すべてをうっちゃりたくなる、といった状態ではないだろうか。マインドワンダリングが十分サラサラとワンダーせず、「本当の意味」を中心にダマになってしまうのである。
 
先に述べたように、ひとつの方法は、単純作業によっていわば「頭空っぽ」にすることである。だがそれだけでは、時間が経てばダマの引力がまた戻ってきてしまう。ならば、「意味に対する態度」の変更が必要になる。それはどういうことか。ひとことで言えば、「本当の意味」の追求をやめる、のである。だがそれが難しい。
 
フロイト以来の精神分析は、悩みの「本当の意味」を分析家と二人で追求するという強力な(パラノイアックな)セッティングを行い、「本当の意味」の泥沼にわざとはまり込むことで「本当の意味」へのこだわりから逆説的に解放されようとする、というかなりハードな実践である。精神分析とはいわば「脳の逆筋トレ」であり、あえて「頭いっぱい」状態を通過することで、逆説的に「頭空っぽ」を目指すのだと言えるだろう。

と、筋トレと精神分析を対比するとして、そのどちらでもない方法がもちろんある。第三の、第nの道がある。坂口くんの実践はそこだ。僕の「制作の哲学」もそうであり、ドゥルーズ+ガタリが考えたこともそうである。先ほど悩みとは出口がない状態だと言ったが、出口を「作る」のである。まさにアウトプットによって。
 
それは、あえて言えば、筋トレ「のよう」であり、精神分析「のよう」でもある。一方では、手を動かす。とにかくやってみる。そこは筋トレに似ている。エネルギーをアクションに備給し、DMNを悶々とさせない。だが、純然たる身体運動ではない。何かを作るわけだ。アイデアは、なんとなくの連想から出てくる……DMNでエネルギーを走らせる。マインドワンダリングによってイメージや観念がつながる。
 
そのときに「何かを作ろうとしている」ことがポイントなのだろう。
 
おそらく、イメージや観念を何かを作る「素材」として扱っていると、マインドワンダリングは「本当の意味」の追求になりにくい。ただ漫然と考えるのではなく、一定の形にしようとする。「一定の」である。そのためには、作ろうとするものに仮にでも制約があった方がいい。深い意味のない制約である。たとえば、この紙一枚に絵を描く、一個のツイート=140字以内で書く、といった。そうした「有限性」の設定によって、漫然と考えるのではなく、ものの組み立てをどうするかというタスク志向的な姿勢でマインドワンダリングすることになり、連想される諸要素は「素材」として離散的に取り扱われる。だから、理念的に言えば、自由連想——つまりDMNをフラフラすること——なのだが同時にアクションでもある、という状態が、脳神経の何らかのエネルギー配分で可能になるのかもしれない(これが科学的に正しいのかはわからないが)。「マインドワンダリングが十分サラサラとワンダーする」とは、そういうことではないだろうか。
 
たとえば、日記的なものから始めて小説を書く、イメージをサラダのように集めて絵を描く、といったアウトプット活動をきっかけとして、生活全体が、漠然と意味を考えるようなものではなくなり、様々な「素材」の組み合わせになっていく。生活が制作的になる。人生を「本当の意味」から解放し、新たに作られていくものにすること。人生の意味も、これから作られるのである。

                     千葉雅也(2020年7月31日)