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vol.6 最恐怪談「牛の首」に隠された秘密――吉田悠軌の異類捜索記

■最恐怪談を求めて

 この世でいちばん怖ろしい怪談とはなんだろう?
 
 オカルト好きなら、一度は考えたことのあるテーマだろう。そしてこの話題になるたび、必ず持ち出されるタイトルが、ひとつ。
牛の首」である。
 ただし「牛の首」という怪談が、いったいどんな話なのかは、誰も知らない。知らないのだが、とにかく最も怖ろしい話なのだということだけが、皆に伝わっている。
 それはあまりに怖ろしい話なので、語りたがる人間がいないから。いや、文字通り「死ぬほど怖い話」のため、聞いたものは恐怖のあまり死んでしまい、他人に伝えようがないからだともいう。
 どこまでも内容が不明な、題名しか知られていない最恐怪談。それが「牛の首」なのだ。
 
――いやいや、不粋な煽りはこのへんにしておこう。
 周知のとおり、「牛の首」という怪談など、実際には存在しない。そんな話があるということ自体が嘘、というか都市伝説に過ぎない。
 いわゆる「怪談っぽい恐怖」とは「なにか怖いものがありそうだが、その正体がわからない怖さ」である。いったん正体がわかってしまうと、それは「怪物に襲われる」といったいわゆる「ホラー映画っぽい恐怖」にすり替わる(両者の境目は曖昧で入り混じってはいるのだが)。だから「どんな話かわからない怪談こそが、いちばん怖ろしい怪談である」という、ちょっと矛盾した現象が成り立ってしまうのだが、つまりその恐怖心理をついたトリックこそが「牛の首」なのだ。
 もちろん、こんなことは今さら言わずもがな。多くの読者にとって、「牛の首」が実態のないメタ怪談、一種のお遊びであるということはとっくに了解済みだろう。
 しかし、である。
 なぜそれは「牛の首」と呼ばれるのか?
 どうして語ってはいけない怪談に「ウシノクビ」というタイトルが冠されているのか?
 あまりに知名度が高すぎるため、多くの人が不問に付している、しかし当然抱くべき素朴な疑問である。語呂がよいから? イメージが不気味だから? ただ恣意的に付けられた題名が、なんとなく定着してしまっただけ? ……本当に、そんな単純なことなのだろうか。
 この点に着目すると、いっさい内容の無い話、事実無根の空虚だけかと思われていた「牛の首」にも、なにかしらの実態が見え隠れするかもしれない。ここ最近、私はそんなことを考えるようになっている。

 ただし「牛の首」が、うつろな「穴」であることには違いない。
 当たり前だが「穴」自体を見ることは不可能なので、我々はただその周縁をなぞることによって、それがどんな「穴」なのか確認するだけである。だから周辺情報を幾つも積み重ねていくことが、「牛の首」へ迫る唯一のアプローチとなるだろう。

■雨を乞う、牛の首

 この噂が最初に周知されたのは、小松左京の短編小説『牛の首』のはずだ[※1]。世間に出回る多くの「牛の首」考察は、この短編を元ネタ・出発点としている。
 しかし注意しなくてはいけない。「牛の首」というネタは、けっして小松左京が創作したアイデアではないのだ。小松自身もインタビューにて、その旨を言及しているのだから。

「牛の首」という話があることは知ってたわけだよ。何十年かごとにね、そういう話がワーッとミステリー界で流行ったという話を聞いたんだ。[※2]

 さらに筒井康隆も、「牛の首」という話題は、SF作家・今日泊亜蘭から聞いたものであることを、エッセイで報告している[※3]
「牛の首」は昔から文化人の間で囁かれていた噂だったようだ。その分布エリアはおそらく近畿・中国・四国の西日本であり、特に兵庫県は注意すべきポイントだ。
 小松が子ども時代を過ごした地域が、西宮および尼崎なのは周知の通り。また筒井が当該エッセイを執筆したのが、妻の実家近くである神戸市垂水区に引っ越した直後なのは、ただの偶然だろうか(ちなみに筒井妻の生家は牧場を営んでいた〉。詳しくは後述するが、そもそも兵庫県は、牛にまつわる現代怪談が多くささやかれているエリアでもある。
 兵庫および西日本には、昔から「牛の首について語るべからず」という禁忌が伝わっていたのだろうか?

 その謎を解く鍵になりうる、と私が感じた本がある。2015年に出版された、筒井功『殺牛・殺馬の民俗学』[※4]だ。同書では日本全国における「牛馬(主に牛)を生贄とする祭儀」の痕跡を探っている。池、淵、滝壺などの水辺にて牛を屠り、その首と血を流し入れる「殺牛儀礼」。この知られざる儀式は、西日本を中心に、昔の日本で広く行われていたらしいのだ。それは「牛転」「牛淵」などの地名や、妖怪「牛鬼」伝説に変化して残されている、とも考察されている。 

 なぜ牛の首を水場に投げ込んだのかといえば、雨乞いのためだ。大陸伝来の殺牛儀礼が、日本では「死体や血の穢れによって、神を怒らせることで、雨を降らせる」という解釈に変化した。この習俗は次第に「すでに死んでいる牛の首を吊るす」「藁で作った牛人形を投げ込む」と穏やかに形式化しつつも、戦前まで各地に継承されていたようだ。
 例えば、1913(大正2)年には和歌山にて牛の首を捧げた雨乞いが行われた報告があるし、1939(昭和14)年の兵庫における牛首・牛血を使った雨乞い儀式は新聞でも報道されている。

牛の首で雨乞ひ
少女歌劇の宝塚にほど近い兵庫県川辺郡小浜村川面部落では旱魃のとき武庫川支流、惣川の上流に牛の生首を投げ入れて雨乞ひすれば雨が降るとの言い伝へがあり(略)三十日この雨乞ひを行った。
(略)牛の生首と生血をとりよせて「雨請」と書いた長旒を先頭にお百姓たちは牛首と牛血を入れたブリキ缶を担ぎ(略)グロな雨乞ひを行った[※5]

 筒井は同書において、こうした殺牛儀礼と「牛の首」との関連に触れてはいない(そもそもこの都市伝説を知らない可能性もある)。ただ、こうした習俗の文献記録などが、現代にほぼ残されていないことについての、以下の言及には興味をそそられる。

「口外をはばかる傾向が強かったことが一層、記録の乏しさにつながっていると思われる」「秘密性の高い祭祀」「秘義とみなされていたことは間違いあるまい」[※6]

 さらに筒井は、各地の怖ろしい牛鬼伝説は、この「秘密」が変容してつくられたもの、「殺牛儀礼の記憶を反映している」のではないか、とも考察している。確かに牛鬼が出るとされた場所はどこも水辺であり、水と密接に結びついた伝承であることは明らかだ。

 さて、ここからは私個人の勝手な想像となる。
 近世~近代にかけて、殺牛儀礼が前時代的と考えられるようになり、各地でこの習俗が途絶えていく。もし子々孫々に伝え残すべき信仰文化だと捉えたのであれば、本物の牛を殺さずとも、例えば藁でつくった代理の牛人形による祭りを存続させればよかったはずである。そして確かに、戦前あたりまでは、そうした代替行為を行っていた形跡はうかがえるのだ。 1943(昭和18)年出版の中山太郎『信仰と民俗』では、兵庫県明石市や大阪市住吉区の例に触れ、「農耕に深い交渉を有する雨乞祭に、牛の首が利用されることは今も昔も全く変る所がない」とまで言い切っている。[※7]

 しかし殺牛儀礼というものは、そもそも秘匿性が高かった上に、一種の血生臭さもともなう。多くの人々は、過去にそれを行っていたとの記録も、さらには記憶までをも消し去ろうとした。
 まさに「牛の首について語るべからず」ということだ。
 隠蔽された記憶、地下に押し込められた歴史は、しばしば「怪談」という歪んだかたちで噴出してしまう(それこそが怪談生成のメカニズムなのだと、私は各所でさんざん言及している)。
 殺牛儀礼の秘密は、かつて「牛鬼」の怪談へと姿を変え、現代に近づくにつれ「牛の首」の怪談へ変容していった。語ってはいけない話=牛の首は、こうして生まれたのではないだろうか。
 明確な証拠を示すことのできない、ただの想像ではあるのだが……まあ可能性のひとつとして、続きを聞いてもらいたい。

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■引き継がれる「贄の木」


 2019年2月17日は、私にとって印象深い日となった。
 黒史郎『妖怪補遺々々』[※8]刊行記念イベントに、私が登壇させてもらった日のことである。この時、私は、現代怪談リサーチにおけるふたつの重要テーマ「赤い女」と「牛の首」について、有力な情報を得ることができた。前者「赤い女」についてはまた別の機会に述べることとして、もうひとつの「牛の首」にまつわる話をしよう。
 黒史郎の『妖怪補遺々々』には、知られざる牛の首怪談が紹介されていたのである。
 そのタイトルはずばり『牛の首』。著者は大正~昭和初期のルポルタージュ作家・石角春洋である。ある雪の夜、危篤の娘のために峠道を急ぐ男の前に、牛の首が浮かび上がる……といった幻想譚だが、石角家の近隣住人が体験した実話怪談でもあるらしい。これに類するような伝承が、他にも周囲に存在していたのかどうか。[※9]
 石角の出身地は京都府。何鹿郡東八田村(現・綾部市)という丹後の山間エリアだが、同地に牛の首と関連するような歴史があるかは不明である。ただ私はこの実話怪談を聞いた時、同じく京都北部の山村を舞台とした、とある漫画作品を思い出していた。
 星野之宣『宗像教授伝奇考』の一篇「贄の木」のことだ[※10]。
 丹波山地の某村では昔、「猪の頭」をかぶった神事が行われていたという。しかし現代の村人たちは、その歴史についてなぜか口をつぐみ、語りたがらない様子。物語が進み、主人公・宗像教授が調査を重ねるにつれ、隠された闇の歴史が明かされていく。かつて飢饉に苦しんだ村の祖先たちは、人肉を食らうことで命を繋いでいたのである。その際、少しでも罪悪感を減らそうと、猪の頭をかぶせた人間を狩り、死体を猪の肉として扱っていた。これこそが、封印された儀礼の正体だったのだ……。
 というのは、もちろん作者・星野之宣による創作である。 

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 しかしこの話が、いつしかれっきとした事実として扱われ、「牛の首」に紐付けられていくようになる。発端は2002年、2ちゃんねるオカルト板に「贄の木」そっくりの話が書き込まれたことだ[※11]。猪頭が牛頭に翻案され、舞台も丹波から秋田の寒村に移されているが、天保の飢餓による人肉食というエピソードは元話の通り。そして重要なのは、これこそが怪談「牛の首」の真相である、との触れ込みがなされた点だ。悲劇の歴史を語った投稿の文章は、こんな言葉で締められている。

それゆえ、牛の首の話は、繰り返されてはならない事だが、
話されてもならない話であり、呪いの言葉が付くようになった。
誰の口にも上らず、内容も分からぬはずであるが、
多くの人々が「牛の首」の話を知っている。物事の本質をついた話は、
それ自体に魂が宿り、広く人の間に広まっていくものである。

 もっともこの直後、投稿者自身は「僕の考えた、怖い話だよ。みんな、褒めて~」と創作である旨を明かしている(正確には創作でもなくパクリなのだが)。しかし同文章はすぐに「真・牛の首」として独り歩きし、ネット上に拡散されていった。なまじ『宗像教授伝奇考』および「贄の木」が説得力ある物語設定だったことも災いし、これこそが牛の首の真相だと一定数の人々に信じ込まれてしまった。この誤解は現在においても引き継がれ、YouTubeやまとめサイトで再生産されている状況だ。
 それよりは影響力が劣るものの、2000年代前半のネット掲示板には様々な「牛の首の真相」についての憶測が出回っていたものだ。内容がゼロである「牛の首」は、だからこそ自由な容れ物にもなる。この都市伝説は、ネット掲示板の流行期において、各々が思いついたオカルト的言説を好き勝手に語り合える、便利なツールとして機能していたのだろう。

 実際に日本各地で語られていた「牛にまつわる怪談」に目を転じてみよう。小松左京に話を戻すと、『牛の首』にも通じる彼の代表的短編『くだんのはは』[※12]もまた「牛頭とタブー」にまつわる怪異譚だった。同作は小松の子ども時代、地元でささやかれていた「クダン」の噂がベースになっている[※13]。「クダン」とは人頭牛身の異形で、生まれた直後に重大な予言をして死ぬのが特徴である。特に終戦間際には、クダンや「牛の様な人」が、大衆がおおっぴらに語れない「終戦」「日本敗戦」を予言したとの噂が流れた[※14]。「不吉な噂・タブー話そのもの」が「牛の異形」にイメージされるという面においては、「牛の首」とも似通っている。
 西宮・芦屋の「牛女伝説」も有名だ。戦時中、空襲の焼け跡から座敷牢が発見された。それはある屋敷にて、牛頭の娘を閉じ込めていた痕跡だった……。また阪神大震災の直後、「赤い着物を着て、直立した牛たちの群れ」を目撃した……との噂や情報が、実話怪談集『新耳袋』にて紹介されている[※15]。
 また1980年代からは鷲林寺にて「寺の洞穴に牛女が住みつき、夜ごと人を襲っている」との噂が広まった。多くの若者が肝試しにやってきて近隣に迷惑をかけたため、鷲林寺は噂を完全否定。「牛女は引越しされました」なる看板を立て、ようやく騒ぎを終息させたのである[※16]。
 クダンや牛女は、なにも西宮・芦屋のみに限定された怪談ではない。しかしこのエリアにおける同怪談の扱いはやや特殊なように見える。少なくともそれら噂が、小松左京の一連の作品のネタ元となっただけでなく、戦後も長きにわたって地域住民の口の端にのぼっていたことは確かなようだ。
『新耳袋』共著者・中山市郎は、これらが「地域限定の怪談で、人面犬とか口裂け女みたいに広まらなかった」ことについて、「その土地だから根付くものであり、他の土地にいったら通用しない独特のものなのかな」と述べている。

「昔、牛を殺す神事をやっている様子を、村人がこわごわ目撃する。牛を生贄にする所作が、人と牛が交尾をしているように見えたかもしれない。(略)それが牛女のイメージになって、ずっと語り継がれてきたんじゃないか」[※17]

 牛鬼を含めたこれら「牛の怪談」は、西日本エリアにて語られることが多い。東日本と比べ、もともと牧畜になじみ深い地域性もあるだろうが、「タブーめいた恐怖」の象徴として、なぜこうも「牛」イメージが定番化しているのだろう。 その原因に過去の殺牛儀礼、およびその隠匿を見ることは可能なのだろうか。

芦屋の牛女(吉田たちによる再現)1

 本稿トップ画像と上記画像は、吉田らが特殊造形とモデルにより、芦屋「50メートルの砂浜」において演出した「クダンを抱く牛女」。
 ここはまた、(牛の首のような)正体不明の謎をはらむ妖怪「鵺(ぬえ)」の死骸が流れ着いた場所でもある。

■残虐とも思える人身御供は本当に行われていたのか

 とはいえ東日本にもまた興味深い事例が多く残されている。私が現地に出向いた範囲でいうなら、例えば静岡県は「」と「水場」にまつわる伝説が多い。
「一碧湖(伊東市)に棲んでいた人食い赤牛が封印された祠に祈れば、必ず雨が降る(明治19年にも雨乞い祈願あり)」「対島村(伊東市)の池にも人を殺す赤牛がいたが、改心後は龍神として祀られている」[※16]。「池ノ平(沼津市)の池に寝ていた赤牛を殺すと、大蛇に姿を変えた。これは池のヌシだったので、水が全て干上がった」[※17]。「椎田池(静岡市)から光玉を背負った黒牛が現れ、京都へ献上しようとしたが途中で死んだ」「池城という池(静岡市)で汚物を洗濯したら、ヌシたる白牛が怒って水が干上がった」[※18]など、枚挙に暇がない。
 静岡ではしばしば水場のヌシとして「牛」が登場する。一般的な水神である「龍・蛇」の代わりとして、もしくは同一視される存在として、牛の怪物が配置されているのだ。
 藤枝市の青池には「ナメダラウシ」なるヌシが棲むとされるが、同時に「娘をたぶらかして池に引きこんだ大蛇を退治した」伝説もある。さらに同地ではかつて「鉦太鼓を鳴らしながら藁の牛人形を投げ入れる雨乞い」も行われており、まさに殺牛儀礼の名残と考えるべきだろう[※19]。 

青池

 さらに注目したいのが静岡市の竜爪山と浅畑沼だ。龍が爪を落としたという竜爪山は雨乞いの地として知られ、「夜中に人目を忍んで牛の首を捧げると雨が降る」[※20]。浅畑沼も「この池に牛の頭を沈めて雨乞いすれば、どんな日照りでも雨が降る。しかしその儀式を口外すれば、雨は降らない」という[※21]。つまり両スポットとも「牛の首」にまつわる「雨乞い殺牛儀礼」と「語らずのタブー」がはっきり示されているのだ。 

竜爪山

 また周辺地域では近年まで、初茄子がとれると竜爪山に向けてから食べる風習があったという[※22]。お盆の供え物で知られる通り、茄子は牛を表す野菜なので、これは過去なされていた殺牛儀礼の名残、その見立て行為だとも考えられる。
 そして浅畑沼には河童が住んでおり、若い娘を内臓ごと食い殺していたともされる。そんな中、孫娘の殺害に怒った老婆が、自ら大蛇と化して池に入り、河童たちを全滅させた……というのが地元で有名な「沼の婆さん」伝説である。蛇になった「沼の婆さん」は、今でも水神として近隣寺社で信仰されている。

麻畑沼

 こうした「人食い怪物」伝説群と雨乞いとの関係を、どう捉えればよいだろうか。太古の昔、雨乞いのために行っていた人身御供を表しているのではないか……という発想もありうるだろう。さらに人身御供とは神へ食物を饗応することなのだから、食人とも結びつくはずで、それこそ「贄の木」のようなカニバリズムまで想像が飛躍してしまう。もちろんそこまでいかずとも、雨乞いのため動物の生贄を捧げたことを表している、とも考えられる。
 時代が進むにつれて、人食いの怪物たちは姿を消していき、身代わりとしての牛を捧げていたものの、それすら牛を見立てた藁人形や茄子へ変化していき、ついには儀礼の記憶そのものが隠されていく……という流れである。

 ただ、このようにして人身御供・動物供犠と接続する際に留意すべき点が幾つかある。まず殺牛儀礼はけっして「神への饗応」ではないことだ。むしろ「死体や血の穢れによって、神を怒らせることで、雨を降らせる」という、真逆の行為として想定されていた。日本人にとって牛馬は食用動物ではなかったのだから、神を悦ばせるための生贄に転じることもなかったようである[※23]。
 そもそも人身御供という儀式が実際に行われていたのかどうかすら、我々にはわからない。その真偽はともかくとして、赤坂憲雄や六車由美が指摘するように、人身御供譚とはいつも、「かつて行われていたが、今はもう無くなったもの」として語られる[※24]。実際に行われたかどうか定かではないが、「語ってはいけない話」として、「昔、ここの祭りでは人を生贄にしていたらしいけど、今はそういうことをしなくなったね……」と地元民がひっそり語る話としてある。またその「語ってはいけない話」とは、「本当にいっさい誰も語らない」ことではけっしてなく、むしろ逆説的に「ひっそり語るための話」として機能している。

 人はいつも、過去にあった事件についての「語ってはいけない話」のタブーを設定する。しかしそれは実際のところ、少しだけタブーを破ることを前提とした、現在において過去の事件を「ひっそり語るための話」なのである。こうした事象が現代でも発生しているのは(人身御供譚よりはるかに軽いノリなのはともかくとして)、2ちゃんねる「鮫島事件」を見ても明らかだ[※25]。そしてもちろん「牛の首」こそ、「語らずのタブーを語る」矛盾した怪談の代表格であることは言うまでもない。 

■牛窪地蔵奇譚
 

 やや論旨が脱線しているようだが、この流れから東京都心のとある心霊スポットにも触れていきたい。
 都庁から3km弱の笹塚交差点にたたずむ「牛窪地蔵」。
 1711年に建立されたものだが、なぜか2000年代に入ってから、徐々に心霊スポット扱いされるようになった。その理由はおそらく、地蔵の陰惨な由来書が、2ちゃんねるオカルト板や心霊スポット系サイトおよびSNSなどで知れ渡ったせいだろう。

牛窪地蔵

「以前この地は極悪人の刑場として 牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という両足から股を引き裂く酷刑場の地であったと伝えられている。この牛と窪地であったことから牛窪の地名となり 牛窪の地名と共に幡ヶ谷地方の雨乞い行事の場所としても有名であった。宝永より正徳年間にかけてこの地に悪疫病がはやり これが罪人の霊のたたりだと伝えられている」(1970年設置の説明版より)

 交通量の激しい20号線沿いに、残虐なる牛裂き刑と罪人の祟りという歴史が隠されているとは。そのインパクトが人々の想像をふくらませ、心霊の噂を呼んだのだろう。

牛窪地蔵外観1

 しかし本当にこのあたりで「牛裂き刑」行われていたのか、はなはだ疑問である。
 まず刑場が管理された江戸時代において、牛裂きのような残酷刑が、笹塚という江戸市中近くで行われたとは考えにくい。では江戸期以前の同地がどうかといえば、鎌倉街道が近いものの、甲州街道も整備されていないただの湿地帯だ。しかも牛窪エリアはかなり落ち込んだ低地(玉川上水も迂回したほど)なので、その中心部=笹塚交差点に、刑場そのものが置かれていたかどうかすら怪しい。
 一般的に、牛裂き刑は戦国~江戸初期の日本で実施されたというが、私はそもそも刑の実在すら疑問視している。確かに『信長公記』(1610年頃成立)[※26]では斎藤道三が、『稽徳編』(1807年成立)[※27]では蒲生氏が牛裂き刑を行っていたとの記述がある。ただいずれも「後世からの旧支配者への悪政批判」、つまり旧体制の野蛮さに言及することで現体制を称揚するといったニュアンスが強いため、素直に史実と信じるべきかどうか。それこそ人身御供譚のように、「かつては行われていたが、今はもう無くなったもの」としてしか語られないものなのだ。

 いずれにせよ牛裂き刑が「日本全体で史上一度でも行われたかどうか」はともかくとして、「笹塚で行われた」可能性は限りなく低いだろう。
 笹塚の牛裂き刑伝説に触れた最初の資料は、おそらく1933年の『東京代々木幡ヶ谷沿革名蹟史』[※28]と意外に新しい。牛窪地蔵尊に設置された説明版も、こちらを参照していると思われる。
 しかし後年発行された、さらに詳細な地域資料である『幡ヶ谷郷土誌』(1978年)[※29]では、牛裂き刑については触れてすらいない。その代わり、同地が牛捨場(家畜の死体捨場)だったとの伝承が紹介されており、谷底という地形の特性上、刑場よりも可能性が高そうだ。さらに同書では、牛窪地蔵が建立された理由を「街道の往来安全」並びに「近隣物故者の冥福」祈願のためと推測。様々な状況証拠からして、こちらの方を正解と見るべきかと思う。

牛裂き_平凡社大百科

 笹塚・牛裂き伝説は、おそらくデマである。しかし「牛の首」調査においては、むしろそのようなデマが発生することこそが興味深いのだ。
 この一帯で古くから雨乞い行事が盛んだったことは、各資料で言及されている他、地理条件にも適い、近代以降の事例もあるので間違いない。笹塚交差点近くの「清岸寺」は明治後期に代々木から移った寺だが、雨乞いの霊験で知られ、現在地に移転後も二度、雨乞い祈願を行ったとしている[※30]。ここに谷底という地形、および牛捨場だった背景を加味すれば、まさしく本稿のテーマ「雨乞い殺牛儀礼の水場」としての牛窪が浮かび上がってくる。
 笹塚・牛窪には、牛を生贄として雨乞いを行っていた歴史が隠されているのではないか。そして歴史の隠蔽は、しばしば怪談へと歪められる。1711年の建立時にはよくある延命地蔵だったものに、ありもしない牛裂き刑と、その刑死者の怨念なる残酷怪異譚が(おそらく明治以降に)付与されてしまった。まったく個人的な仮説にすぎないのだが、この流れはまさしく、雨乞いの地でささやかれる「牛鬼・人食い牛の怪談」と共通している。
 殺牛の雨乞いを行っていた歴史の隠蔽→語らずのタブーという歪みによる怪談の発生。このメカニズムの行き着いた先に、最恐怪談「牛の首」がある。 だから「牛の首」は、「語ってはいけない話」とされているのではないだろうか。

■「怪談」、その真髄へ 

 以上、つらつらと「牛の首」にまつわる事情を考察してみた。
「だから結局、牛の首怪談の真相とは、なんなんだよ!」
 そう憤る読者もいるだろう。
 申し訳ないが、それは一切わからない。
 繰り返しになるが、「牛の首」とは実態のない物語、空虚な「穴」だ。がらんどうの空間に、しっかと正鵠を射ることなど、論理的に不可能である。今回のように、関連するらしき周辺情報を羅列することで「穴」の周縁をなぞり、どのような形状の「穴」なのか推測するのが精一杯なのだ。
 それはドーナツに例えるとわかりやすいだろう。ふつう我々は中心に穴のあいたリングドーナツをドーナツと呼ぶ。我々の認識として、ドーナツは穴が開いているからこそドーナツなのであり、穴そのものがドーナツであることと密接に結びついている。しかし我々がドーナツを口に運んでも、穴そのものは食べられない。食べられるのは穴の周りだけなのだ。
 そしてドーナツよりも厄介なことに、「牛の首」という穴をなぞるための周縁もまた、不穏な空洞だらけなのだ。例えば「牛頭天王」との関連はどうなっているのだろうか。これは単なる「牛」「頭」からのイメージに過ぎないが、牛頭天王にまつわる様々な事象を鑑みるに、あながち的外れな連想ではないのかもしれない、とも思う。もちろん、あの謎多き存在を調べることなど、まさに深淵へ身を投げる行為であり、私などにはとても手に負えそうにないのだが。
 とはいえ「牛の首」の空虚な穴を浮かび上がらせるには、殺牛儀礼はもちろん、クダンや牛女などの怪談、人身御供、牛頭天王のような深淵の数々を、おそるおそる覗いていく他ないのだろう。光で闇を照らすのではなく、闇によって闇に触れる行為とでもいおうか……。
 なんとも困難な課題だが、だからこそ「牛の首」という深き穴の奥に、「怪談」そのものの真髄が秘められている気がしてならない。(敬称略)

[脚注]
※1:小松左京『牛の首』(初出・サンケイスポーツ、1965年2月8日号)
※2: 『午後のブリッジ――小松左京ショートショート全集(5)』(ハルキ文庫、2003年)乙部順子によるインタビュー(日時2003年8月7日)
※3:筒井康隆『狂気の沙汰も金次第』(初出・夕刊フジ、1973年5月)
※4:筒井功『殺牛・殺馬の民俗学』(河出書房新社、2015年)
※5:大阪朝日新聞1939年8月31日付
※6:※4同書
※7:中山太郎『信仰と民俗』(三笠書房、1943年)
※8:黒史郎『ムー民俗奇譚 妖怪補遺々々』(学研プラス、2019年1月)
※9:石角春洋「牛の首」(『文藝市場』1926年3月号)
※10:星野之宣『宗像教授伝奇考』「贄の木」(初出・コミックトム、1995年7月号)
※11:スレッド「死ぬ程洒落にならない話を集めてみない Part14」2002/5/21投稿
※12:小松左京『くだんのはは』(初出・話の特集、1968年1月号)
※13:笹方政紀「戦時に件(クダン)を語る訳―戦時流言に関する一考察―」 『世間話研究』27号(世間話研究会、2019年8月)
※14:立石憲利『戦争の民話Ⅱ 戦場からの知らせ』(手帖舎、1989年)、南 博・佐藤健二『近代庶民生活誌4 流言』(三一書房、1985年)
※15:木原浩勝・中山市朗『新耳袋』第一夜、第九夜(初出・メディアファクトリー、1998年、2004年)
※16:WEBサイト『鷲林寺ホームページ(牛女伝説の真実)』
※17:東雅夫『妖怪伝説奇聞』(学習研究社、2005年)
※18:土屋俊輔『伊豆の伝説』(郷土社、1957年)
※19:静岡県女子師範学校郷土研究会『静岡県伝説昔話集』(長倉書院、1975年)
※20:小山有言『駿河の伝説』(安川書店、1943年)
※21:阿部正信『駿国雑志』 (吉見書店、1909~1912年)
※22:※18同書
※23:※19同書
※24:WEBサイト『龍爪山の歴史』
※25:高木敏雄『人身御供論』1913年(ちくま学芸文庫、2018年)、六車由美『神、人を喰う』(新曜社、2003年)
※26:赤坂憲夫「人身御供譚の構造」『境界の発生』(講談社、1989年)、六車由美『神、人を喰う』(新曜社、2003年)
※27:スレッド「伝説の「鮫島スレ」について語ろう」(2001年5月24日)を嚆矢とした、一連の流れ
※28:太田牛一『信長公記』(奥野高広、岩沢愿彦 校注、角川文庫、1969年)
※29:深田正韶『稽徳編』(観成社、1891年)
※30:石川源助『東京代々木幡ヶ谷沿革名蹟史』(諸氏家系図調査所、1933年)
※29:『幡ヶ谷郷土誌』(東京都渋谷区立渋谷図書館、1978年)
※31:『渋谷区史』(渋谷区、1952年)