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倒錯、分裂…、革命だ! 対談 森元斎×髙城晶平 森元斎著『もう革命しかないもんね』(晶文社)をめぐって

※本テキストは図書新聞 3507号 (発売日2021年08月02日)に掲載された対談を許可をいただいて、見出しなどは適宜改編の上、転載したものです。


▼つながりの契機

髙城:ぼくはceroというバンドをやっているんですが、キーボードなどを担当している荒内佑君は、森元斎(以下、ゲンサイと呼びます)の高校の後輩で、ぼくと荒内君を引き合わせてくれたのがゲンサイなんです。ceroのかつてのドラマーで、いまは『文學界』の表紙の絵も描いているイラストレーターの柳智之君もゲンサイの後輩です。

よく覚えているのは、荒内君の家に初めて行ったときのことです。ゲンサイもそこにいました。夕方五時のチャイムが鳴ったら、「あ、五時だ」と言ってゲンサイが荒内君の家の冷蔵庫を勝手に開けて、ビールを飲み始めました。信じられない、他人の実家なのに(笑)。ゲンサイは野生児でありながら、人を引きつける不思議な引力のある人で、昔も今も人のゆるいつながりをつくってくれる人だという印象があります。

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森:十代の後半から、平井玄さんなどとの偶然の出会いもあり、音楽と社会、あるいは抵抗をつなげて考えたいという思いが大きくなっていきました。髙城君や荒内君と会ったころはまだそうではなかったのですが、いずれそうなればいいなとはぼんやりと思っていました。今でも裏で動いて人と人をつなげるのは好きです。

髙城君と荒内君をつないだのは、たまたま二人がそれぞれやっていたバンドが解散したタイミングがあって、この二人は合うだろうなと思ったので、一人一枚ずつCDを持って荒内君の家に行こうと言ったことがありました。そのときに髙城君は細野晴臣のCDを持ってきて、ぼくはフィッシュマンズで、荒内君は坂本龍一でした。

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髙城:わかりやすい(笑)。

森:その後で二人はバンドを組んだわけですね。

髙城:そうですね。

森:あの頃は、音楽をやっていこうと思っていた時期だったのですが、同時に思想や社会的なこと、あるいは社会に抗うこともやりたいと思っていた。とはいえ、次第に自分の音楽の能力に限界を感じ、大学院に進み、哲学をバリバリ勉強しました。当時はカルチュラル・スタディーズなどの残滓があり、その雰囲気がありましたが、にもかかわらず今となっては当たり前のドゥルーズやフーコーといった哲学者について大学院で扱うのはいかがなものか、という風潮が少なからずありました。だからぼくもドゥルーズを直接研究するのではなく、ドゥルーズに影響を与えたホワイトヘッドという哲学者について扱い、博士論文まで書きました。それはそれでもちろん好きなのですが、自分がやりたいことは必ずしもそれだけではないという気持ちがずっとありました。

また、パリに留学したとき、フランスの哲学者たちは、何か事件などが起きると、翌日の新聞などに状況に即応してすぐに記事を書いたりします。街頭にも立って、デモの現場にいたりします。自分のなかの「哲学者像」としてそういうものがどんどん大きくなっていきました。日本に帰ってきた後、もちろん硬い哲学的なこともやりつつも、この世界の出来事に対峙したこともやらないとな、と再度思っていたころに、3・11が起き、それも大きなきっかけとなって好きなことを書くようになりました。

それによって自分の「学者生命」が断たれたところもあったと思いますが、しかしもはやそんなことを言っていられないし、書きたいことを書いたほうが健康にもいい(笑)。学者として学会誌に論文を書くことは素晴らしいけど、それだけではなく、あれもこれも、やればいい。「でも、就職できないんだろうなあ」と思いながら暮らしていた間のビルドゥングス・ロマンが本書です(笑)。

結果的に自分は就職できたわけですが、それでオッケーというわけでもありません。二〇代後半から三〇代前半くらいの、大学院生でもいいしミュージシャンでもいいけれど、あまり仕事がなくて悩んでいる人たちに、ビビらないで好きなことをやってみてもいいのではないかと言いたいんです。

自分は長男で母子家庭で、「メシが食えないのはダメ、絶対」という環境で育ったはずなのに、しかしこういう道を自ら選んで、よかったな、と思っています。昔、髙城君が何かのインタビューで、根拠のない自信だけど、自分は音楽でメシが食えると思っている、というようなことを言っていたことがあって、それを読んで、「そうそう、それ!」と思ったことがありました。

自分も、もしかしたら非常勤講師を一生続けるかもしれないけど、しかしその一方で、根拠なく、常勤の先生になるんだろうなと漠然と思っていました。そして現になった。何とか暮らせるようになったんだから、やたら権威的になって学生を押さえつけるよりはむしろ彼女ら・彼らを解放していくようなことを言っていくべき立場に自分はいるのではないかと思っています。

だから本書のような本を書いたのですが、学術界的には「何だこいつ、バカか」と思われるかもしれません。

髙城:まず単純にエッセイとして非常に面白い本です。すごく読みやすかった。ぼくのまわりの友人たちでも、既に手に取って読んだと言っている人がいます。前にゲンサイが『アナキズム入門』(ちくま新書)を出したとき、ぼくがやっている阿佐ヶ谷のRojiという店で刊行記念イベントをやりました。その前後に、どういうわけか小沢健二さんがぼくに電話をくれていたんです。それでぼくが「実は昨日はRojiで『アナキズム入門』という本のイベントがありまして」なんて話したら、小沢さんがものすごく食いついてきて、「誰にも言っていないけれど、ぼくは生粋のアナキストなんですよ!」と言っていました。

本書を読んでいたら、ゲンサイが最初に買ったCDが小沢さんの『LIFE』だったということで、ここに謎のドリームがある(笑)。面白いですよね、「書くこと」によってそういうアクロバティックなつながりが生まれるというのが。そういうつながりを信じてゲンサイは書いているんだと思います。

本書第7章の「音楽」が特にそうですが、西東京のごくごく一部の、本当にローカルな音楽話が書いてあり、ぼくにはよくわかるのですが、他の土地に住む人が読んでわかるのかどうか(笑)。でも、自分が好きなミュージシャンの音楽話を本で読んだりすると「すげー、あの人とあの人がここでつながっていたんだ!」なんて思ったりしますが、それはゲンサイが書いているくらいに非常にローカルな自分語りを、後世の人がありがたがって読んでいるだけなのではないかと思いました。いずれにせよ、本書には「つながりの契機」がたくさん仕掛けられているなと思いました。

森:前にルー・リードについて書いたことがあり(森元斎「ルー・リードとニューヨーク」『文藝別冊/KAWADE夢ムック追悼ルー・リード』河出書房新社、二〇一四年)、その際改めていろいろ調べたのですが、ルー・リードがルー・リードとして「出来上がっていく」環境は結構狭い。ニューヨークの数ブロックくらいに若い人たちが集まっていた。

もちろんルー・リードの場合はデルモア・シュワルツという、詩人で大学時代の先生の影響も大きいのですが、ニューヨークのごく一部の場所で起きたことによって彼が出来上がっていった。ニューヨークという都市の特殊性も関係しているでしょうが、案外狭いと思う。その意味で、髙城君たちの音楽も、「狭い」、あるいは「ゆるい」ところから生まれてきているのではないか。

髙城:それはそう思うよ。

▼パートタイム・アナキストであること

森:髙城君がどうやって音楽をつくっているかはわからないけれど、「極小な」自分の部屋でギターを弾いたりしてつくっていても、違う世界に飛ぶことができるような音楽をつくり出すためには、ある程度は「場所」に根ざしていないといけないんだと改めて思いました。

本書を書きながら思ったのは、もちろん日常生活は大事ですが、アンリ・ルフェーブルが「日常生活批判」と言ったように、私たちの生活のなかにはダメな要素がたくさんあります。

プラスチックをあまり使わないようにしようねとか、子どもにゲームばっかりやらせちゃダメだよねとか。あるいは、われわれの日頃の生活スタイルそのものが現政権のみならず、資本主義を支えてしまっているということはありうる。日常生活を営むなかで、それを相対化するなり、そこからズレていくことをどうやっていったらいいのか。「革命」とは、たぶんそういうことなんだと思います。

「革命後の世界」とは何なのか。それを先に生きていかないと示すこともできないし、それを常に探求していないと、革命が起きて終わりになってしまう。また恐怖が始まってしまう。そうならないような仕方で、われわれが先に何をするかがとても重要で、そのときに場所や領域、自分の持ち場があることが欠かせないと思います。

日常があり、場所があり、政治があり、反政治があり、そこからズレた新たな自分の土壌をつくること。自分の生活や実践が成功していたかどうかなんてわかりませんが、遠くにも届く活字でそれが共有できたらいいなと思います。

髙城:本書で一番共感できたのは、誤解を恐れず言えば「パートタイム・アナキストであること」です。本書の最後のほうで、アナキストは矛盾だらけであるというように書いてあります。人は時には環境問題について考え、時にはラクがしたいと思い、時には上から来る命令を避けて反抗してみるけれど、時には国民として生きてみたりもする。そういうゴダール的な「二重人間」( double)の要素がありうると思います。それを「倒錯」と呼んだりもするでしょうが、ぼくは、その倒錯こそが大事なのではないかと考えています。

本のエピソードで言えば、子どもには木でできたおもちゃで遊ばせたほうがいいんだろうとは思いつつ、プラスチック製の仮面ライダーのおもちゃで遊ばせちゃうお父さんの姿には非常に共感できます。例えば「動物にも権利があるんだから、ヴィーガンになるべきだ」みたいに、すべてを「正しく」やっていくと、人は動きづらくなってしまうように思うんです。パートタイムで「チョッケツ」できることが、本書に暗に書かれていたことなのではないかと思いました。

森:アナキズムはある種の理念ですが、その理念を明示した途端に、われわれがそれに縛られてしまいます。例えば原発事故が起こった後で、「もう電気は使わない」という極端な一つの方向に収斂させるのではなくて、分有、分裂させていくことによって、自分は一人だけれど、「倒錯」的にいろんなところに行けるようになるというか。一つの本質があるのではなくて、分有や分裂が可能になっていったほうがラクですよね。理念が仮にあったとしても、それを様々な方法で分有し、分裂させていったほうが、実際に生活もラクになるのではないでしょうか。

そうするといろいろなものがバラバラになっていくけど、「これもあったね、あれもあったよね」と、引き出しがたくさんあったほうがいい。そのなかでその都度それらをつなげていったりしていく。ベンヤミンの「星座」がどういうことか、最近やっと身をもって腑に落ちました。『国道3号線』(共和国)を書いたときに思ったのは、それは「目の前にある過去」だということです。現前していないけれど現前している。確実にそこに流れているんですよ。

ぼくの目の前にいる北九州のおっさんのなかには、谷川雁と会話した経験が生きて流れている。だから、「いまも谷川雁は生きている」と感じました。そう感じたときに、それを自分なりにつなげていって、ノンフィクションだけどフィクションというか、ウソじゃない物語として「星座」をつくることができる。

音楽にもそういう面があるのではないか。自分がいまいる場所と、過去のミュージシャンたちはバラバラで、つながりがないように見えるけれども、例えばエグザイルからブラック・ミュージックに行く流れもありえるでしょう。マイルド・ヤンキーってダサいよねとかインテリ風に冷笑してないで、むしろ、そこに流れる水路を見つけていく方が楽しい。そうやって広がっていけば、音楽の聴き方も豊かになっていくし、実人生にもフィードバックされていくんだと思います。そんなわけで最近、創作意欲が湧いています。

▼計画と無計画のあいだで

髙城:それは本書を読んでもわかりました。今の自分につながるなと思ったのが、ceroは最近制作のために吉祥寺にアパートを借りたんです。メンバー三人でものをつくろうと思って。それまでは、自分の曲は自分の家で、デモの段階までは完成させて、計画書のようにして「自分はこういうことをやりたいと思っているんです」と提示して、そこからいろいろ動いていくというのが基本的な流れでした。しかしこのトシにして、三人でゼロからつくるようにした。ここには「計画」がありません。計画がないと、よくなるしかないんです。計画という青写真があると、放物線を描いてその少し下に止まるんだなとすごく感じました。

斎藤環さんがPDCAサイクル(Plan計画、Do実行、Check評価、Action改善、のサイクル)を批判しています。オープンダイアローグで、無計画から話していけば、よくしかなりようがない。いま自分がやっている音楽の成り立ちに近いものを斎藤さんの意見から感じています。そこにさらにゲンサイの本書を読んで、「あ、おんなじだ」と思ったわけです。ゲンサイの家探しも無計画ですよね。ブラブラ歩いて、空いてそうな家に行ってみる。そしていざ家が見つかってみると、ボロボロだけど、漆喰を塗ることができる人が友人にたまたまいたりする。全部無計画です。

しかし無計画だからこそ、みんながそこに入ってこられる。そして星座が勝手に組み上がっていくのではないか。計画を持たないことは、とても面白いことなんだと、いまさらながらに感じています。

森:何年か前にアートスペース・テトラというところに共同運営で関わっていました。あるとき、テトラの理念をつくって、その理念でもって動かしていったらどうだろうかという意見が共同運営者から出たことがあったのですが、ぼくは大反対しました。理念をつくるとそれに縛られてしまうし、そこから外れるようなことは一切許さなくなってしまいかねない。それはまったく楽しくない。自分がやることといえば、気になる研究者やアーティストなどを呼んでイベントをやることだったので、いわゆる「アートスペース」がやることではない。でもぼくはそういうのもあっていいと思っていたのでそうやっていました。

例えば「アナキストであること」を理念に組み込んでしまったら、それはそれで面白くないわけです。だいたい、何人か集まったら理念っぽいものなんて出来上がりますよ。そこから分裂していく、倒錯していく。人間が何人かいて、「何かやろうね」という目的さえあれば、一緒にいれば何か面白いことになるに決まっています。フィッシュマンズの「ワイキキ・ビーチ・スタジオ」なんて、中学生や高校生のとき、「そんな場所があったら楽しいだろうな」と思っていたじゃないですか。

髙城:そうそう。憧れたよね。

森:それをいままさに髙城君たちがやっているわけでしょう? ……楽しそうだなあ(笑)。

髙城:遊びに来てよ(笑)。計画と無計画に関連して言えば、「子育てと教育」についてが個人的には本書で一番面白かった。こっちの勝手な思い込みで、ゲンサイは確固たる信念を持って子どもと向き合って、しっかりやっているんだと思っていました。でも、ちゃんとしていなくてホッとした(笑)。

森:長男は東日本大震災から二週間後に生まれたのですが、申し訳ない気持ちもありました。「ダメなものはダメ」とちゃんと教えないといけないと思った。当時、福岡に住んでいたのですが、子連れで避難してきた人が多かったんです。そういう人たちと一緒に子育てをしていって、「シュタイナー教育がいい」「モンテッソーリがいい」などといろんな情報が入ってきたりもしましたが、そのコミュニティに入っていけばいくほど「なんか違うな」と思うようになりました。ディスっているのではなくて、リスペクトしていますが、しかし「木のおもちゃはウチではもう無理っしょ」と思った(笑)。

髙城:そこはすごく共感する。

森:ぼくが買わなくても、子どもが欲しいと言えば親戚がガンガン買ってくる。だから否定のしようがないなと思いました。ゲームも、最初はダメだと思っていたけど、いまはYouTubeを見ないとお話にならない世界です。また、これは坂口安吾の名言ですが、「親があっても、子は育つ」。親がいかに無能でも、子はそれなりに育っていくわけです。それを信じるしかないと思います。

髙城:子どもに対してが一番計画が成り立たないよね。計画を成り立たせると、逆に危ない。

森:そう。「絶対に15時までに家を出ないといけない」ってなっても、子どもがウンコ漏らしたりして15時に家を出られないからね(笑)。ズレていくというか、目的が達成されないイヤさもあるけれど、子どもがいてもいなくても、それはそれで人間らしいかなと思います。

アナキストたちの合言葉に「No future」(未来はない)がありますが、これはむしろ明るく言っています。未来なんてものが存在しないからこそ、われわれは好きなようにやっていくべきです。常に未来がない状態で、未来に向かっていくだけであるということを実感したときに――大杉栄が言っていますが、花にならずに芽の状態に留まっていようと。そこからつながっていくこともあるだろうと思います。人と人とが出会う場所をつくることも芽だと思う。

花になることによって蜂と出会ったりするけれど、しかし芽であることによって蜂とも蛾とも蝶とも出会えるかもしれない。ずっと胎動していくその状態を様々に表現できるようになったら、自分はアナキズムの哲学者として成功なのかなと思いますが、それができるようになるのは老齢になったときかもしれません(笑)。

音楽と言葉の往還が世界を豊かにすると思います。音楽を聴く子は本を読まないとか、活字を読む子は音楽を聴かないとか、悲しいことだと思います。ここはちょっとだけ子どもじゃなくて大人になってみて、音楽と言葉をつなげて、自分でやってみて、それをまた子どもに伝えていく。ぼくらももういいトシで、コロナで死ぬかもしれないから、次世代のことをそろそろ考えてみてもいいのかなと思っています。

▼革命とは「チョッケツ」である――火種を探せ!

髙城:No futureだね(笑)。本書には、先ほども少しだけ触れた「チョッケツ」という言葉がよく出てきますね。ヤンキー用語です。本書でも言及されている映画『バンコクナイツ』のパンフレットでも解説されていますが、これは原チャを盗んだりするときに、配線を短絡させることを指す。それが転じて、ある瞬間において、敵対関係にあろうとも即座につながるあり方として使われている言葉だということです。

本書のタイトルにある「革命」とは、この「チョッケツ」のことなのではないかと思いました。また、「チョッケツ」や「革命」を一番身近に感じられるのは子どもかもしれないとぼくは思っています。

森:想像でしかないけれど、革命の瞬間とチョッケツの瞬間は似ている気がする。BLMや黄色いベスト運動においても、そこでデモなどをしていた人全員が必ずしもアナキストではありません。必ずしもマルクス主義者ではありません。J・バトラーが言っているようなインターセクショナリズム的に、多様な人々が交差している瞬間がある。パッと集まって、パーンと弾ける瞬間がある。その瞬間は、やはりショートしているんだと思います。無計画なんだけど、場をつくっている。それはまさに革命的なあり方でしょう。

また、歴史を振り返っても、ロシア革命、フランス革命、もちろんパリ・コミューンにおいても、流れはずっとあります。ロシア革命では不満を持っている農奴たちのところにインテリが入っていって、アドバイスをして農奴が暴れたり、あるいはデカブリストの乱という貴族たちの反乱があったりしました。それらがギュッと凝縮した瞬間がロシア革命だったんだと思います。

パリ・コミューンについても、当時パリに住んでいた人みんなが「革命を起こせ!」と思っていたわけではないけれども、普仏戦争でフランスが負けて軍がいなくなった瞬間に、「あ、ここは自分たちの空間なんだ」ということでみんながダーッと参加するようになる。ここもチョッケツしているでしょう。

革命後の世界というものを日常に近いところから考えてみると、チョッケツがそのモデルとして考えられるのではないかと思います。髙城君たちが吉祥寺で場を借りてやっていても、いつもチョッケツが起きるわけではないけれど、起こる瞬間は必ずある。賭けのようなものかもしれません。

しかし、そういうときにこそ音楽はできるし、文章は書けるし、本がつくられたりするんだと思います。そこに賭けていくことが大事で、そのための条件や状況を整えていくことをわれわれは常にやっていくべきなんだと思います。

髙城:コロナ禍で、例えば下北沢や渋谷などで若い子たちが「路上飲み」をやっていますよね。ウイルスの蔓延防止の観点からはその是非は問われるでしょうが、しかしあれも一つのチョッケツなのではないかと思うときがあります。ぼくらの世代では「ジベタリアン」と呼ばれました。ヤンキーやチーマーみたいな人たちが路上に座り込んで、「けしからん」という目で見られてニュースになっていたりもしました。

これも、いまになって考えてみると、上の世代が様式として「けしからん」と言うわけですが、路上を自分たちのものとして取り返すべくお尻を地面にペタッとつけていたのではないか。別に思想も何もなくて、ただドカッと座る。これも一つの「革命」だったのではないでしょうか。そう考えてみると、本書にも書いてあるように、「革命の火種」のようなものはたくさん点在しているんだなと改めて思いました。

森:喫茶店で何をするでもなく、ただダラダラとそこにいたことってありますよね。「バンド名、何にする?」とか、ただずっと話をしている。それが一番楽しいことだし、その瞬間って頭のなかはずっとショートしていると思います。路上で集まるのもそうだし、お花見なんてメチャクチャ楽しいじゃないですか(笑)。

特に田舎ではやることがないから、みんなダラダラ集まるしかなかった。人と人が集まるとクリエイティブなことが生まれやすいし、引きこもって考えていたことを人にぶつける瞬間の楽しさもある。だから引きこもることも必要だし、外に出てみんなでおしゃべりすることも必要です。そのグラデーションのなかで行きつ戻りつする。

そのどっちかだけ、例えばずっと人に会ってばかりいると疲れますよね。引きこもってばかりいても楽しくない。いいタイミングで人と会うとチョッケツすることがある。髙城君も、ソロでやることとceroでやることをわけているわけですよね。とはいえ、ソロとしてつくった曲をceroでやることもあるだろうし、その逆もあるはずです。

髙城:うん、そうだね。いまの話を聞いていて、チョッケツは個人の内部でも起こりうると思いました。対人関係においてチョッケツが起きるとも限らない。自分のなかにポリフォニー的に自分がいて――社会人としての自分と、音楽をやっている自分とがチョッケツするときもあると思う。そういうときに「革命」が起こりうるんだと思う。

森:そう、倒錯して分裂していれば革命は起きる。ドゥルーズ=ガタリが、欲望とは革命的であると言っています。欲望は、一人の人間のなかにあっても、次から次へと矛盾するようなことを突き上げてくる。ソロの音楽をつくりたいときもあれば、バンドの音楽をつくりたいときもある。あるいは引きこもりたいときもあれば、人と会って喋りたいときもある。そんな欲望に私たちは裏打ちされているはずなのに、「社会」や「資本主義」という括りが
できてしまい、それらのなかで欲望を全部吸い上げようとする。

しかし欲望は資本主義のためだけ、あるいは社会のためだけのものではありません。欲望に忠実であることは社会のためではなく、むしろ反社会的なことばかりです。だから反社会的である欲望は社会をひっくり返す契機にもなりうるんだ、と。だから倒錯することや分裂することは、ドゥルーズ=ガタリを経由しようがしまいが、革命につながっていくのではないかなと思います。(了)