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樋口恭介『すべて名もなき未来』まえがきを公開します

気鋭のSF作家・批評家である樋口恭介さんの評論集『すべて名もなき未来』が5/27に発売になります。発売に先立って、本書のまえがきにあたる「序 失われた未来を求めて」を公開いたします。本書のエッセンスが凝縮されたこのエッセイ、ぜひご一読のうえ、ご購入いただけるとさいわいです。

序 失われた未来を求めて

私は一九八九年に生まれた。
昭和天皇が崩御して元号が平成に変わり、ソ連ではグラスノスチが進められる一方で、中国では天安門事件が起きて情報統制が強化されていた。ヨーロッパではベルリンの壁が崩壊して東西ドイツが再び繫がり、マルタ島でジョージ・H・W・ブッシュとミハイル・ゴルバチョフが会談し、それまで約五〇年間続いていた東西冷戦の時代が終わった──子どもの頃、家にあった世界地図にはまだソ連があったし、ドイツは西と東に分かれていた。百科事典も同様だった。父は私が小学校に上がるころまで、ロシアのことを「旧ソ連」と呼んでいた。私はそれをよく覚えている。
その翌年、一九九〇年にはイラクがクウェートに侵攻した。国際連合は多国籍軍を派兵し、戦争が始まった。ブッシュは戦争が好きだった。私は誰かの受け売りで、そうした知識を持っていた。冷戦の時代からテロの時代へ、時代は移り変わりつつあった。多く指摘される通り、それは近代の大きな物語が崩壊する時代であり、そして小さな物語が乱立する時代だった。あるいはそれは、現実が実態的なものから情報的なものへ──物理的なものから論理的なものへ、リアルからハイパーリアルへ、素朴な実在から思弁的な実在(スペキュラティブ・リアリズム)へ──移り変わりつつある時代だった。テレビのコメンテーターは湾岸戦争について、「その戦争は、まるでビデオゲームの画面のようだ」と言い、父も私に「湾岸戦争はまるで、ビデオゲームのような戦争なんだ」と言った。父は何度も同じことを話すくせがあった。そのせいで、私は現在に至るまで、湾岸戦争とビデオゲームという言葉をセットにして覚えている。ボードリヤールは「湾岸戦争はなかった」と言った。湾岸戦争は一九九一年の四月に停戦したが、停戦協定の履行をめぐってはイギリス・アメリカとイラク間での緊張状態が続いていた。「いつ戦争が再開されてもおかしくないんだ」と父は言った。あるいは、他の新たな戦争が始まったとしても、と父は言った。
二〇〇一年になると同時多発テロが起きてイラク戦争が始まった。私が中学一年生のときのことだった。九月一一日、私は黒い学生服を着ていた。私はギャツビーのワックスで髪を整えていた。当時流行していたハイビスカスのステッカーを学生鞄に貼っていた。黒のコンバースを履いていた。学校に行くと友人がやってきて、「見たか? ニュース。飛行機、映画みたいですごかったな」と言った。私はニュースを見ていなかったのでなんのことかわからなかった。朝礼が始まると、先生が挨拶の中で、「ニュース」でやっていたという「飛行機」について話してくれて、それで初めて何が起きたのかを把握した。「世界にはたくさんの悲しみがあります。私たちは悲しみをできるだけ繰り返さないようにしなければなりません」と先生は言った。本当はそうではなかったかもしれない。私たちは何分間かニューヨークに向けて黙禱を捧げ、それから授業に取り掛かった。国語の時間にヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」を読んだ。授業中に誰かが先生に当てられ、「いっときの自分の快楽のために、本当に大切な友達を失うようなことはしてはいけないんだなと思いました」というようなことを言っていた。先生はうなずき、彼は座った。私は机の下でデジモンを育てていた。カッターナイフや彫刻刀で、机に好きなバンドの名前や好きな曲の歌詞を彫った。X JAPAN、ブルーハーツ、ドラゴンアッシュ。陽はまたのぼりくりかえす。漫画を読んで、ときどき眠った。チャイムが鳴るまで、そうやって過ごしていた。「いっときの自分の快楽のために、本当に大切な何かを失うこと」、私はそんな経験をしたことがなかった。彼だってそんな経験をしたことはなかった。私たちは誰一人そんな経験をしたことがなかった。けれども私たちはその経験について知り、知っているその経験をあたかも実際に経験したことであるかのように話すことができた。そのころ私たちはイメージの中を生きていた。そのころ私たちは、「映画みたいにビルに飛行機がつっこむ世界」で生きていたのだ。

本書はフィクションではない。しかしながらそれは、本書がフィクションでないことを意味しない。全ての人間はフィクションを生きている。人間はフィクションを通して現実に触れている。フィクションが認識を規定し、フィクションが人間を規定している。世界とはフィクションを通して触れられた現実の名であり、時代とは、変わり続ける世界 フィクションの、ある特定の瞬間に与えられた名のことである。

二一世紀は「まるで映画のようだった」という言葉から始まった。それは「ビデオゲーム」よりもさらにリアルで・迫力があり・直情的であるといった意味が付加された比喩だった。ビデオゲームは一人で行われるが映画は複数人で観られる。そこではエンターテイメントとして観られることに付随する、人工的で過剰なスペクタクルが求められる。二〇〇一年九月一一日。 燃え上がる飛行機。崩れ落ちるワールド・トレード・センター。それらの映像をテレビの画面越しに見た人々──張り巡らされたカメラ、視線、通信網。そこでは映画と映画でないものは等価になる。文字通り、現実的なもの・切実なもの・肉体的なもの・血液も・叫びも・死も、全てはフィクションに覆われている。動画サイト上ではハリウッド映画のように壮大でヒロイックなエフェクトがかけられた、テロリストたちによる斬首動画がインターネット上を流れている。世界中で多種多様な背景を持つテロが起き、リアルタイムで中継され、中継されながらN次創作が生成され、botがそれらを複製し、インターネット・ミームが増殖していく。来歴を失った悪意が繁茂し、新たな暴力が実行されるときを待っている。今では平成は終わり、新しい元号が始まっている。令和。二〇一〇年代の終わり、二〇二〇年代の始まり。ビデオゲ―ムのような戦争から約三〇年経過したその時代にあって、私たちの知る現実はミームに覆われ、何もかもができの悪いフィクションのように戯画化されている。私たちはまさしく──たとえばSF作家のフィリップ・K・ディックが、虚構の中で現実として描いた悪夢そのものを、今 や確かな手触りのある現実として生きているのだ。

フィリップ・キンドレッド・ディック。アメリカのSF=サイエンス・フィクション/スペキュラティブ・フィクション作家。

一九五〇年代のアメリカSF黄金期にデビューし、その後SFの模索期を経験。ニューウェーブ/スペキュラティブ・フィクションと呼ばれる新たなSFジャンルの旗手として活躍し、一九八二年に死去。最後の長篇となった『ティモシー・アーチャーの転生』の出版と、代表作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作とするリドリー・スコットの映画『ブレードランナー』の公開直前だった。ディックはその映画の公開をとても楽しみにしていたが、この世界の生前にその映画を観ることは、ついぞ叶うことはなかった。享年五三歳。短い人生だった。
フィリップ・K・ディックの作風は、「不条理SF」などと呼ばれることが多い。フランツ・カフカ的な不条理/悪夢=非現実的な現実感が、カフカのような自然主義的リアリズムとしてではなく、自然主義的世界には存在しないはずの、架空の──しかしそれは現実でないことを意味しない──ガジェットを介したSF的なリアリズムとして描かれているというわけだ。そこでは「並行世界の観測が可能となった未来」といった舞台設定や「アンドロイド」といった登場人物、「感情操作を行う機械」といった道具立てが用いられる。たとえば広く知られている通り、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、「感情オルガン」と呼ばれるガジェットを使用することで、登場人物たちは自分たちの好ましいように自らの感情を調整し、その結果、自分が感じている情緒が「本当に自分が自分として感じていることなのか、それとも感情オルガンによって感じさせられていることなのか」がわからなくなり、また、人間のように振る舞うアンドロイドと、アンドロイドのように振る舞う人間が交互に描かれることで、アンドロイドと人間の差異が何かがわからなくなる。その作品は私たちに、私たちの記憶や感情や確からしさのこの感覚が、私たち自身では根拠を確かめることのできない、曖昧なものであることを訴えかけるのだ。
虚構と現実の境界が揺らぎ、融解すること。虚構が現実を侵犯し、二つの間の主従関係が転倒すること。それがディック作品の特徴である。そうした作風をして、アーシュラ・K・ル = グウィンはディックを「アメリカのボルヘス」と呼んだ。ボルヘスから多大な影響を受けたル =グウィンにとって、それはディックに対する最大の賛辞だった。たしかにル =グウィンの指摘する通り、現実の不確かさを暴き、虚構と現実の境界のあいまいさを指摘するという点ではボルヘスとディックは類似する。しかし、そうした作風に至った契機は両者で異なる。ボルヘスは書物に埋もれ、書物の宇宙に触れることでその着想に至ったが、ディックは現実に触れ、現実に埋もれることでその着想に至った。ディックの世界で人が死ぬとき、ディックはこの世界で実際にそれを経験しており、ディックの世界で語り手が狂うとき、ディックはこの世界で実際にそれを経験していた。ディックは双子の妹との別れを経験し、友人との別れを経験し、恋人との別れを経験していた。ディックは現実と虚構の間を行き来し、過ぎ去った離別を様々な仕方で語り直し思い直し経験し直すことで、過ぎ去ったはずの悲劇に、異なる可能性の光を当て、救済の可能性を思った。ディックは複数の世界を、物語によって擬似的に構成できることを知っていた。ディックはそれが、打ち捨てられた者たちの救済につながることを知っていた。あるいはディックは薬物中毒で、たった一つの錠剤が世界を全く異なるものに変えることを知っていたし、さらに言えばディックは気が狂ってもいた。ディックはこの世界で切実なものに触れ、傷つき、壊れ、狂ってしまうことで、私たちが現実と呼んでいるものがいかに脆いもので、また私たちが現実と呼ぶもの以外にも現実と呼びうるものが複数あるということを、逆説的に、身体で知ることができた。あるいは、誰もが単一的なこの世界に縛られていることに耐えられず、自分だけが狂うことで、ディックは世界に抵抗したのだとも言えるかもしれない。単一の世界に縛られた単一の身体でありながら、複数の世界に触れること──たとえ狂ってしまったとしても。ディックにとって、それだけがこの世界で生きることへの抵抗であり救済だったのだ。
「私にとって救いがあるとするなら、それは恐ろしいもの、不毛なものの中心にある、カラシの種のような滑稽さを見つけ出すことだ」とディックは言っている。「最後にはどこへ行きつくのか。無である。何も存在しない。脱出口は一つしかない。すべてに滑稽さを見出すことだ」
ディックはつねに風穴を探していた。切れ目を探していた。〈この世界〉から〈あの世界〉へアクセスするための、〈あの世界〉から〈この世界〉を見つめ直すための。
ディックは確かにそこにある〈現実のもの〉として、〈不確かな現実〉を生きていた。そこでは真実と虚構は風見鶏のようにつねにくるくると反転し続け、人間と非人間の境目はわからなくなり、生きているものと生きていないものの境目はわからなくなる。全てのものは、生きている感覚はあるものの生きているとは断言できない、〈不気味なもの〉と化す。まるでそれは、『ヴァリス』に描かれた世界に酷似した、高度に情報化され、過度に接続された現代に生きる 私たち自身がそうであるように。
ヴァリス/VALIS。Vast Active Living Intelligence System。巨大にして能動的な生ける情報システム。自動的な自己追跡をする負のエントロピーの渦動が形成され、みずからの環境を漸進的に情報の配置に包摂かつ編入する傾向をもつ、現実場における摂動。擬似意識、目的、知性、成長、環動的首尾一貫性を特徴とするもの。あるいはインターネット。そこに張り巡らされた網状の通信回線上に繁茂する、ソーシャル・ ネットワーキング・サービス。

そうした技術の発達と普及によって、現代に生きる私たちは常時ネットワークに接続されソーシャルグラフを構成する一個の──文字通りの──ノードとして見なされるようになった。私は本業であるコンサルティングの仕事の一環で、SNSの投稿内容を分析することがあるが、そのとき私が分析するのは人間ではなく、端的なノードである。ノードはプロフィールや位置情報や投稿内容の傾向に基づいてカテゴリ別に仕分けされる。ノードの中には人間らしい感情の機微が細かに表現された投稿を行う「本物の人間」がいる一方で、特定のメッセージや広告情報を機械的に出力することに特化したbotなどの「偽物の人間」がおり、また、「本物の人間」に運用されているにも関わらず「偽物の人間」のような反応を示す半bot、あるいは、人間らしさを構成するある種の複雑性を排し、単一の目的に即した単一の言動を反復することを特徴に持つ、裏アカウントや捨てアカウントもいる。裏アカウントや捨てアカウントといったノードたちは、営利目的や非営利目的、政治・信条の表明やプロパガンダなど、様々な目的で運用されているが、それらは目的に資する以外の投稿を行うことはない。それは一般的に言って機械のように見え、人間らしくは見えないが、それらのノードは自分たちが人間らしく見えるかどうかに拘らない。そこには反復可能な運動だけがあり、反復的な運動だけがあればよい。それらのノードはそう考えている。SNSのデータ分析をしていると、そうしたノードに必ず出くわす。そうしたノードは無数に存在している。要するに、ソーシャル・フィード上には、本物の人間であるノードと偽物の人間であるノード、本物か偽物か、生物か無生物かがわからない、正体不明のノードたちが蠢いているのだ。

そして、それら有象無象のノードたちは、クラウド上のデータベース/データウェアハウスの中では純粋に定量的なデータとして扱われる。それらのデータは機械的なアルゴリズムによって整形される。分割され再結合され集計され可視化される。ノードが人間か否かに関わらず、投稿内容は仕分けされ分析され定量的に評価され、統計的に、ある一定の集合的な傾向として見なされる。そこではノードの表現する感情が本物であるかどうかは関係がない。出力されたテキストが、感情的に生み出されたものか否かは別にして、そこには感情があるものとされ、事実上、それは生きたテキストとして扱われる。たとえそれが、無感情な機械によって自動的に生成されたテキストだったとしても。

夜が来て、私はデータ分析の仕事を終えて自宅に帰る。本棚からフィリップ・K・ディック の小説を取り出し読み返す。私は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で描かれていた──SNS上を戯れるノードたちのような──アンドロイドと人間の関係のことを思い出す。 あるいは、まるで現代のインターネットのように全てがデータとアルゴリズムによって駆動さ れた、分裂症的で、偏執狂的で、断片的で、乱立し錯綜し多重化される、『ヴァリス』の世界 を思い出す。
私は自室のソファに座り、ときどき本を置いてスマートフォンを手に取る。Twitter を開き、Facebook を眺め、Instagram を眺める。私はそこで、自分が「本物の人間」であるかのようなテキストを書き、絵文字を添え、写真をアップロードする。私は本物の友人たちとされるノードからリプライやコメントをもらい、一つずつそれに返信していく。そのとき私は、自分が「本物の人間」であることを信じて疑わない。友人たちが「本物の人間」であることを信じて疑わない。しかし、それをこの目で確かめたことはない。そう、私は私自身を人間だと思っているが、私の持つ「人間としての記憶」は、実は人工的に捏造されインストールされていたものなのだと明かされる日が来ないとは限らない。あるいは、私以外の友人たちが実は、いつの日からか「偽物の人間」に──たとえば自動返信機能を追加し、半bot化していたケースなどは現実的にありうるだろう──すり替わっていたのだと明かされる日が来ないとは限らない。そのとき私は何を以て人間を人間だと言えるのか? 人間と機械にはどのような違いがあると言えるのか? 私が今までもこれからも一貫した私であり続けることを、一体私の何が保証してくれているというのか? ディックの小説は私たちにそう問いかける。そうして私は人間がわからなくなり、私は自分がわからなくなる。私はやがて混乱の中で、「〈この私〉ではない〈別様の私〉」について、あるいは「〈別様の私〉になった私の目から、〈この私〉だったはずのかつての私」に思いをめぐらせ始める。

ところで、申し伝えるのが遅れたが、私は昼と夜とで異なる仕事をしている。昼は未来を実装する仕事を、夜は未来を想像する仕事をしている。

具体的には、昼はテクノロジー・コンサルタントとしてコンサルティング会社に勤めて働き、夜はSF作家として自室でSF小説やSF批評を書いている。両者の仕事は似ているとも言えるが、全く似たところがないとも言える。共通するのは未来について思考することだが、それぞれ目的も違えばアプローチも異なる。そのため当然ながらアウトプットも異なってくる。一言で言えばコンサルタントは、「確実にある/あった未来を先取りしてクライアントに提供する仕事」であり、SF作家や批評家は、「不確実だがありうる/ありえたかもしれない未来を読者に喚起させる仕事」である。あるいは前者は「既に顕在化しており可視化されている未来に向けて現実を調整する仕事」であるとも言え、後者は「潜在的であり不可視の未来について思いを巡らせる仕事」であるとも言える──いや、もっと簡単に言い換えてみよう。前者は「現実的な未来のための仕事」であり、後者は「非現実的な未来のための仕事」である。
コンサルティング、SF、批評。それらは異なる仕事である。それらは無関係な仕事である──少なくとも、多くの人はそのように考えている。私はコンサルタントとしてSFについて語ったこともなければ、SF作家としてコンサルティングについて語ったこともない。批評家としても同様である。もちろんそうしたことを語ることを求められたこともない。コンサルタントはSFに興味を持っていないし、SFはコンサルティングに興味を持っていない。批評家はあらゆるものごとに興味があるとも言えるが、何にも興味がないとも言える。いずれにせよ、それらは現状、全く異なるものとして棲み分けが成されているのである。
私はそうした現状に疑問を持っているわけではない。本書はそうした現状に対する問題意識を表明し管を巻き糾弾する類のものではない。比較優位の原理がそう語ってみせる通り、分業には分業の意味があり、棲み分けには棲み分けの意味がある。一つの業態が担う生産可能性には限界がある。コンサルタントには限界があり、SF作家には限界があり、もちろん批評家にも限界がある。コンサルタントは万能ではなく、SF作家も批評家も万能ではない。コンサルタントは「次にどのような未来がやってくるか?」ということを雄弁に断言し、SF作家や批評家は未来について確実なことは何も語らない。それはそれで正しい振る舞いである。一人の人間が生産可能なもの・投入可能な時間・費用・能力には限界がある。各々には得意な領域があり、各々は得意な領域に注力するべきであり、だからこそそこには隔たりがある。そこには隔たりがあってしかるべきである。しかしながら本当は、私はそれらが深く結びついたものであり、本当は、それらが隔てることができないものだと考えている。
時間は一方向に向かって流れる──少なくとも、人間の脳と身体は時間をそのように認識する。そのため、過去も現在も未来も、全ての時間概念は、単一の時間軸に沿って流れる単一の瞬間であると考えられている。しかしながら本当はそうではなく、過去も現在も未来も単一のものではありはしない。そこには複数の現実が折り重なって存在する。誰もそれを普遍的で定型的なものとして決めることなどできはしない。未来は便宜的に措定される。確定されるわけではない。未来は無数にあり、認識可能な選択肢はつねに複数存在する。全ての人間が選択の繰り返しによってその人生を方向づけているように、人間の集合から成る社会は──あるいは「時代」と呼ばれる、人間の集合から成る社会が想定する一定の時間は──選択の繰り返しによって方向づけられている。誰もが「あのときこうしていたらこうなっただろう/こうはならなかっただろう」と想像するように、社会もまた、そうした想像力を持っている。人が夢を見るように、社会もまた夢を見るのだ。
哲学者であり批評家でありSF作家であり、そして「ゲンロン」という出版社の創業者でもある東浩紀は、虚構と現実が交錯する並行世界SF小説『クォンタム・ファミリーズ』において、フィリップ・K・ディック『ヴァリス』や村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』「プールサイド」(『回転木馬のデッド・ヒート』所収の短篇)といった、先行するSF/文芸作品に対する批評を展開し、その結実として「反実仮想の想像力」という概念を提示している。その概念について、東は同作の中で、ある一人の登場人物に次のように説明させている。「石のような無生物は、現実と非現実、ある世界と別の世界が決して交わることのない物理的(フィジッシュ)な水準でしか存在することができない。しかし人間は、現実と非現実のあいだ、複数の世界が交わる水準に位置するメタ物理的(メタフィジッシュ)な存在である。石は並行世界をもたない(ヴェルトロース)が、人間はたえず並行世界を作り出している(ヴェルトビルデント)。だからこそ、人間はつねに、並行世界からの干渉が要請する反実仮想の想像力、「できたかもしれない」という罪(シュルト)の意識に苛まれるのだ」
一般に、人が「できたかもしれない」と言うとき、人は過去を振り返っている。人は既に過ぎ去ってしまったできごとに対し反省し、後悔する。もしもあのとき彼女に告白していたら、もしもあのとき彼の話を聞いてやっていたら、もしもあのとききみにこう言ってあげていたら──私たちは違う今を生きていただろう。
しかし、こうした想像力は何も過去にのみ適用できるものではない。過去が改変可能性を内包しているように、未来もまた改変可能性を内包している。多くの未来は人為的に・社会的に・構造的に決定づけられているが、しかしそれは決定づけられているがゆえに、「反実仮想の想像力」を差し挟むことができるという性質を、原理的に保持しているとも言えるのだ。もしも明日彼女に告白したら、もしも明日彼の話を聞いてやったら、もしも明日きみにこう言ってあげられたら──私たちは、そうすることのなかった未来とは違う未来を生きることができるだろう。本来あるはずだった未来とは異なる未来を生きる私たちは、並行世界の住人であると言える。
そして今、私は未来の可能性についてあらためて考えてみようと思う。コンサルタントとしてではなく、SF作家としてでもなく批評家としてでもなく、コンサルタントでありSF作家であり批評家でもある視点から──似ているようで似ていない、同質でありながら異質の、単一的でありながら複数的な視点から──今、単線的に仮構され選びとられた、唯一無二の確定的な時間構造の間隙にこぼれ落ちた、亡霊のように不可視の領域を漂う、別様のあり方を伴う、無数の失われた未来を求めて。



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東京・神保町にある、文学・芸術を中心とした書籍と各種学校案内書を発行する出版社です。犀🦏のマークが目印です。

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